シャトーカミヤ
の歴史

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シ ャ ト ー カ ミ ヤ の 歴 史

 シャトーカミヤは、牛久駅東口から徒歩約8分の所にあります。
 レンガ造りのフランス風建築で、シックな赤茶色のレンガ壁、緑色の屋根、白い時計塔といった配色が美しく、まさに西洋のお城といった感じです。
 「シャトー」とは、フランスでは、ぶどう園を備えた優秀なワイン醸造場に与えられる称号です。

 シャトーカミヤは、明治36年(1903年)に、神谷傳兵衛かみやでんべい が建てたものです。
 傳兵衛は、ここでぶどう栽培からワイン醸造までを一貫して行い本格的な国産ワインを造り出しました。
 現在は、大きなワイン樽や、昔使ったワイン造りの道具などのある資料館、バーベキューのできる広い芝生、レストラン、ワインショップなどがあります。


明治38年(1905)頃のシャトーカミヤ

 神谷傳兵衛は、安政3年(1856年)2月11日に三河国松木島村みかわのくにまつきじまむら(現在の愛知県 西尾市一色町) で神谷兵助かみやひょうすけの六男として生まれ、子供の頃の名前を松太郎まつたろうといいました。
 代々名主をつとめる家柄に生まれた傳兵衛ですが、父親の多趣味から家が貧しくなり、幼くして働きに出ざるを得ませんでした。
 ある日、傳兵衛が父親に連れられて姉の嫁ぎ先(古来から酒造家が多く銘酒の産地として知られている尾張国知多地方)の村へ行った時に、酒造りの家がみな裕福なのをみて「酒造家」になると心に決めたと言われています。まだ8歳だったといいます。
 それからの傳兵衛は、8歳で酒樽造りの弟子として働き、11歳の時には商人として独立して、綿の仲買人や雑貨の行商などを行っていましたが、16歳の時に失敗して全財産を失ってしまいました。
 17歳の時に、横浜の外国人居留地でフランス人の経営する混成酒醸造の「フレッレ商会」に雇われ、ここで様々な洋酒製造法を習得しました。
 24歳の時に、東京浅草の観音様の近くに酒の一杯売り家を開きました。店の名は生まれ故郷にちなんで「みかはや(読み方は「みかわや」)」としました。 最初はにごり酒を売っていましたが、国内で洋酒の需要が高くなってきたのに目をつけ、輸入ぶどう酒の再製による日本人の舌にあう甘いぶどう酒の製造に成功しました。これが功を奏して 、「みかはや」の酒は浅草の名物になりました。
 明治18年(1885年)には「蜂印」を、翌年には「蜂印香竄葡萄酒はちじるしこうざんぶどうしゅ」の名を付けて売り出し、 後にフランスの博覧会で金賞を受賞するほどの酒を造ることができるようになりました。
 明治27年(1894年)9月に傳兵衛の養女誠子まさこと結婚した傳蔵でんぞう(日本橋で働き者で研究熱心だと評判でした) は結婚式が終わった3日後にぶどう栽培やぶどう酒造りについての勉強のためにフランスのボルドー地区へ渡仏し、3年の約束が過ぎ、終了証をもらった傳蔵は、明治30年1月12日に帰国しました。
 傳蔵がフランスから帰国した後すぐに傳兵衛は、ぶどう園の最適地を求めて土地を探した結果、牛久の気象条件や地質がボルドーに似ていることがわかり、160haの土地を購入して明治31年の春に「神谷葡萄園」が誕生しました。
 明治34年(1901年)2月に本格的醸造場「神谷シャトー」の建設に着手し、2年後の明治36年の秋に完成しました。
 大正10年(1921年)には北海道に新しい会社を設立するなど仕事に対する情熱はいつまでも衰えることはありませんでしたが、体調がだんだん悪くなり、大正11年4月24日に66歳で逝去されました。


45歳の傳兵衛

昭和6〜7年頃の作業風景

昭和6〜7年頃の作業風景

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