その後、忠五郎は、一生懸命働いて三人の子供を育てました。末っ子の竹松はすぐれた若者となり、都に上って公家に仕えることになりました。
都で妻を迎えた竹松に、逞しい男の子が生まれ、千代松という名をつけました。
千代松は神童と言われるようになり、特に兵学を柳水軒白雲齋に学び、柳水軒義長という名前をいただきました。
その頃は、戦国の時代で、世の中は乱れ、戦いが絶えませんでした。
義長が、父の故郷に帰ってみると、そこでは北条氏が佐竹氏と勢力を争っていました。
義長は、牛久の城主岡見宗治の武将、柏田の栗林左京亮の門をたたき、すっかり気に入られて家来になりました。
義長は、その後たびたびの合戦を巧みな策で勝利に導き、ますます信頼されて左京亮の婿養子になり、栗林義長と名乗りました。
やがて下妻の多賀谷政経の大軍が攻めてくるという報がありました。
北条氏尭は武将たちを集めて軍議をを開いたとき、岡見宗治に、「そちの家来に栗林義長という者がおろう。その者には、神霊が乗り移っているとか聞いている。これを総大将にしたいと思う。」と言いました。
殿様からこれを聞いた義長は、たいへん驚き、一度はことわりましたが、御大将直々の命令に引き受ける決心をしました。
水上の戦いでは負けしらずの多賀谷の水軍に勝つためには、かつて柳水軒先生から学んだ火攻めの計しかないと考え、ひそかに戦いの準備をしました。
戦いの前夜、義長は
「どうか明日の風向きを教えて下さい。」
と、神に祈ると闇の中にボーッときつねのような顔をした老婆が浮かび上がり、
「明日の風は南だよ。」
と言うとスーッと消えてしまいました。
戦いの日がきました。戦場は水海道と福岡の間の小貝川です。多賀谷の水軍は数百艘の
舟で川面を埋め、鉦、太鼓をならしながら攻め下ってきました。
義長は風を背にして合図の狼煙を上げさせ一斉に襲いかかりました。
火矢を雨のように射かけると盾板に火がつき、そこへ油壺を投げ込んだので、敵は大混乱に陥りました。
この大勝利で、義長の活躍は関東一円に知れ渡り、北条氏尭公から沢山の褒美をいただきましたが、「これも皆の奮戦のお陰だ。」と言って諸将や部下に分け与えましたので義長の評判はますます高くなりました。
義長は、戦いが上手なだけではありませんでした。小野川に堰を作り、用水掘を掘り、堤防を築くなどして農民を助けました。
また飢饉のときには、館の兵糧倉を開いて民衆を救いましたので仏のようなお館様と慕われました。
義長は、たびたびの合戦で危機を救われ、たくさんの手柄を立てることが出来たのは、おばあさんのお加護 |