牛久市観光協会

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観音寺
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本 堂(茨城県指定有形文化財)

威徳山福聚院観音寺は、本尊に十一面観音を祀る天台宗の古刹です。
境内には、四季折々の花が咲き乱れ、特に紫陽花の季節には歩くことが困難なほど咲き乱れます。また、新緑の季節や秋の紅葉もとても優雅で幻想的な世界に入り込むことが可能です。

平成3年1月25日に茨城県の指定有形文化財に指定された本堂の建立時期は、嘉禄2年(1226年:鎌倉時代前期)とされていますが、定かではありません。もし、鎌倉時代に建立された木造建築ということが証明されれば、国指定文化財になることも夢ではありません。
観音寺本堂は、一重の寄せ棟造りで、本尊として十一面観音菩薩坐像(昭和60年12月16日茨城県有形文化財に指定)を安置する建物で、間口・奥行ともに12.6mの方形です。
柱は正面葺下しの角柱2本を除いて他の柱はすべて直径31cmの欅けやき材丸柱を使用しています。柱間は2.02mで一面6本です


境内の様子

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仁王門
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銀杏の巨木
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四季折々の姿を見せる寺院

観音寺の歴史

観音寺が創建されたのは信太荘(平安時代の終わりに池禅尼(平清盛も継母)が天皇家にこの地を寄進して誕生した荘園。現在の土浦・つくば・牛久・阿見・江戸崎)の時代、嘉禄2年(1226年:鎌倉幕府が承久の乱(1221年)をきっかけとして全国に強大な権力を持つようになった時代)とされていますが誰が創建したのかは不明です。

大泳5年(1525年)に土岐原治頼が観音寺の十一面観音の再興を行いました 。これは、治頼の統治する場所と、その西方の勢力の小田氏との境界線を提示する意味を持たせるためでした。この十一面観音の再興が土岐原氏(後に土岐氏と改姓)と観音寺の最初のつながりのようです。

天正5年(1577年)に土岐治英は土岐越前守と共に観音寺の修復工事を行いました。これは、勢力拡大を目論む戦国武将達の合戦が続き軍事的に極めて緊張していた久野の人々に対する信仰的な安心感を持たせる意味もあったと思われます。
しかし、豊臣秀吉による小田原征伐により北条氏が滅亡すると、久野の地を統治していた土岐氏も江戸崎・竜ヶ崎の拠点を追われることとなり、観音寺は土岐氏という外護者を失うこととなりました。

内藤清成(徳川家康の命により、検地奉行として江戸崎の地に来た)が慶長12年(1612年)に家来の楠織部と共に観音寺の修復を行っています。世情の不安定ななかにあって江戸幕府の権威を知らしめる目的があったと思われます。

宝永3年(1706年)から翌4年にかけて本堂の大修理と仁王門の建立が行われました。(このころの修復費用は大名や領主が一切の資金を出すのではなく、農民たちも少しずつ資金を出して修復費用に当てるようになってたようです。) 現在の観音寺の本堂の大部分はこの再建工事によるものです。さらに、この工事の際に出た古材を利用して仁王門も建立されました。


金剛力士像

宝永4年(1707年)に建立された仁王門内の両側にいる仏を警護する夜叉神の総名。(写真は那羅延金剛)
像は慶安3年(1650年)に造立されたものと考えられています。


梵鐘(ぼんしょう)

寛保元年(1741年)に久世睴之(当時のこの地の支配者)が中心となって寄進された梵鐘は残念ながら、昭和17年(1942年)8月19日に太平洋戦争の進展に伴う日本軍の金属類特別回収により供出(供出した梵鐘の重量245㎏の代金は219円83銭でした)しました。現在の梵鐘はその後に復興されたものです。


四阿・彫刻

・四阿(あずまや)
・火炎の彫刻(境内にあった大木を利用して作られています。)


十王像

冥府にあって亡者の罪業を裁断する十人の王のことです。
中央石段の上に座っているのが十王の長である閻魔王です。他には秦広王、初江王、宋帝王、五官王、変成王、太山王、平等王、都市王、五道転輪王がいます。


紫陽花

紫陽花寺の別名があるほど観音寺の紫陽花は有名です。例年6月中旬から下旬に見頃を迎えます

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施設データ

 
所在地 茨城県牛久市久野町2976
電話番号
拝観時間 9:00~15:00
備考

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