出生・生い立ち |
小川芋銭は江戸幕府最後の年となる慶応4年(明治元年・1868年)2月18日に江戸赤坂溜池の山口筑前守弘達 |
画塾『彰技堂』
に学ぶ |
明治14年(1881年)芋銭(当時13歳)は生涯でただ一人の絵の師匠である本多錦吉郎ほんだきんきちろうと伯母を介して知り合い、彼が経営する画塾彰技堂に入塾して学び始めました。
これが芋銭の画業の出発点となり以後4年間懸命に絵の勉強を続け、17歳のときに彰技堂を出ました。 |
・朝野新聞入社
・帰 郷
・結 婚 |
通説によれば、明治21年(1887年)芋銭は改進党の尾崎行雄の推挙で『朝野新聞ちょうやしんぶん』客員として入社し、はじめて画業での収入を得るようになりました。
朝野新聞では、通説によると磐梯山の噴火(1888年)の惨状や第1回帝国議会(1890年)のスケッチを描いたり、漫画などを描いて紙面にのせましたが、収入が少なく生活は苦しいものでした。
明治26年に父から帰郷しなさいとの命令が出され、朝野新聞を辞めて再び牛久の土を踏んだ芋銭は、終日農耕に従事しました。身長約150cm、体重約40sの小さな体と、生まれながらの虚弱体質での作業は相当大変なことだったでしょうが、絵に対する情熱は一時も冷めることなく、わずかな暇をみては画帳を開き絵を描き続けましたが父にはまだ絵のことは認めてもらえませんでした。
明治28年(1895年)2月に同じ村の大工の黒須巳之助の二女「キイ」、通称「こう」と結婚しました。
こうは健康で体格もよく農事には一通りの心得があり、芋銭が何の心配もせずに絵の勉強ができるようにと夫の分まで働きながら、5人の子供を立派に育て上げました。
こうの「夫の分まで働くから」という申し出により、父は芋銭の画業を黙認するようになりました。 |
漫画製作の頃
画家としての雅号『芋銭』
俳人としての号
『牛里』 |
芋銭が28歳となった明治29年(1896年)に水戸で発行されていた『茨城日報』に描いた漫画を投稿しました。当時は無名の一農村画家でしかなかった芋銭の漫画はあまり歓迎されませんでしたが、「渡辺鼓堂」の目に留まり、鼓堂の推奨で同誌に掲載されました。それ以来芋銭は鼓堂と生涯の交友を続けました。
『芋銭』の雅号はこのころから用いたとのではないかといわれています。
「徒然草」に出てくる芋を好んだ和尚「盛親僧都じょうしんそうと」
の悠々として物にこだわらない心と徳にひかれたこと、そして自分の絵も芋を買う銭にでもなればいいなと思い「芋銭」としたといわれています。
『牛里』の号は郷里牛久の名にちなんでつけられたと思われます。
明治41年(1908年)芋銭が40歳のときには「草汁漫画」を刊行し、その内容が反響を呼び、「平民新聞」「国民新聞」「読売新聞」や俳句誌「ホトトギス」にも芋銭の漫画や表紙画が掲載されました。
明治44年(1911年)芋銭が43歳のときに東京と大阪の三越で「芋銭未醒漫画展覧会(うせんみせいまんがてんらんかい)」を開催しましたが、芋銭は漫画の挿絵や表紙画だけで満足できませんでした。 |
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草
汁
漫
画
よ
り |
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草
汁
漫
画
よ
り |
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日本美術院同人
となって |
芋銭は明治38年頃から本格的な日本画の製作をめざしました。芋銭子名作集のなかで、「蓋し漫画の境地ますます飽きたらぬものあり、本格画への要望に自己の現在を顧みての感懐か」と書いています。
明治43年には社会主義者が弾圧されていた時代だったが、芋銭は農村解放のための共鳴に過ぎず社会主義者ではないことから、弾圧等はされませんでした。
芋銭は本格的な日本画家を志した結果、大正4年には平福百穂ひらふくひゃくすい、川端龍子(かわばたりゅうし)らと「珊瑚会」を結成し、第1回展に「尾花の踊り」「蛭の血」「採蓴(さいじゅん)」など、第2回展には「春の巻」、第3回展には「森羅万象」「3人笑」「肉案」を出し、横山大観や斉藤隆三らのの推挙を受けて日本美術院の同人となりました。
斉藤隆三は「やや漫画的な臭いを残しつつ、克明な写生に基づく細心な風景こそ、在来の遊戯気分から脱して絵画の本道に入ったもの」と評価し、日本画家小川芋銭の誕生を見たのでありました。 |
旅から旅へ |
芋銭は農事・家事のことは妻に任せて長期の旅に出かけるようになりました。大正6年に後援者「田代蘇陽たしろそよう」の招きで、冬の会津へ3ヶ月間滞在し、第4回院試作展の「雪景」はこの旅から生まれました。翌年8月には富山県の徳万宝念寺に54日間滞在し、黒部渓谷を写した「峡谷朝靄(きょうこくちょうはい)」「陶土の丘」を第5回院展に出品しました。
大正8年には病後ではありましたが、「樹下石人談(じゅかせきじんだん)」を第6回展に出品しました。
大正9年8月には東北から北海道へ、11月には長野県から新潟県へ旅をしました。
大正10年アメリカのクリーヴランド博物館主催の日本美術院展に出品しました。
大正13年1月から7月、それ以降も晩年まで銚子海鹿島ちょうしあしかじまの篠目ささめ氏別荘に滞在し、そこを「潮光庵ちょうこうあん」と名づけました。
大正14年(1925年)の第12回院展に出品された「野千燈」は、これまでの芋銭には見られない境地として」評価されました。
大正15年8月には丹波(現在の兵庫県)の西山泊雲(にしやまはくうん)(俳人・高浜虚子の門人)宅を訪れ、翌年の4月まで滞在し、滞在中に「丹陰霧海」を制作しました。西山泊雲と芋銭は泊雲が芋銭に短冊12枚を送って絵を描いてもらったことから交友が始まりました。 |
晩年・終焉 |
芋銭には子供が5人いました。上からはな・修一しゅういち・洗二せんじ・知可良ちから・桑子くわこです。芋銭の三男知可良と泊雲の長女敏子が結婚し、また泊雲の長男謙三と芋銭の二女桑子が結婚し、芋銭と泊雲は深い親戚となりました。
昭和10年10月から長女が嫁いだ横須賀(現在の茨城県利根町)の弓削家に翌々年9月まで滞在し、途中出雲へも旅をしました。
昭和12年旧居宅の前に妻こうと長男修一の意向でアトリエが新築されました。これが「雲魚亭」であり、現在の芋銭記念館です。当時芋銭は古希記念新作展覧会・河童百図の準備にあたりました。
昭和13年(1938年)1月入浴中に脳溢血で倒れてからは一時は回復に向かいましたが、12月17日に永眠しました。倒れてからは再び筆を持つことなく71歳(満70歳)の輝かしい生涯を閉じました。法名(ほうみょう)は「潮光院清淵芋銭大居士」、雲魚亭に程近い曹洞宗の古刹「得月院」に手厚く葬られています。 |
雲魚亭の入り口にある扁額 |
河童松の奥に見える雲魚亭 |
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