河童の碑は雲魚亭から程近い場所に建てられています。
 芋銭の生前の数々の偉業を讃えるために昭和26年に芋銭の友人「池田龍一」氏が中心となって建立されました。
 碑の正面やや左側には河童の絵が描かれています。これは、現二科展会員「中村直人」氏が監修し、「八柳恭次」氏が描いたものです。
 正面右側には『誰識古人画龍心(だれかしるこじんがりゅうしん)』の文字が刻まれています。これは、何故河童を描くのかとの問いかけに芋銭が答えた言葉です。

改善一歩(右の写真は河童の碑と雲魚亭の中間に建てられているものです。)

 この道標は、大正11年(1922年)に城中青年会(矯風会)の手によって旧牛久村の主要なみちすじにたてられました。
 その当時青年たちが道標をたてる計画をしていたところ、それを知った芋銭が、永久に耐えられる石柱にしなさいと寄付をしてくれたものです。
 青年会では早速好意を受け芋銭の名を石柱に刻もうとしましたが、芋銭は名前の変わりに、「改善一歩」と刻みなさいといわれました。
 この意味は、自分の歩む道を善い方へ改めて進みなさい。という意味です。

 
雲魚亭から河童の碑へ続く道 カッパ松 中河与一の歌碑

河童松の言い伝え

 

初代の河童松は昭和30年におしくも枯死しました。現在の松はその後に植えられたものです。

牛久の地に陸前浜街道(現在の国道6号線)が通り、宿場には旅籠や茶店が並び、人々の往来で賑わっていたころの話です。
 村に彦右衛門という屈強の農夫がいました。たびたび起こる河童の悪事(沼で水遊びをしている子供を溺れさせたり、畑のキュウリを食べてしまったり、魚採りの網を切ったり など)に彦右衛門は怒り、あるとき大変な格闘の末に河童を捕まえることができました。河童は村中を引き廻され、沼辺の大きな松の木にうしろ手で縛られ、三日三晩さらしものにされました。 暑い夏の日差しで河童の皿の水はみるみる干し上がっていきました。
 日増しに元気のなくなった河童はとうとう四日目の朝に村人に泣きながら詫びました。「これからは一切の悪さはしません。」「今までの罪ほろぼしにお百姓さんの役に立ちます。」というのでかわいそうになった村人たちは河童を沼へ放してあげました。
 以来、畑のキュウリも荒らされることなく、沼で水浴びをしても溺れることなく、そればかりか沼の周りの余計な水草や、葦を 刈って積み上げておいてくれました。
 そのときの河童が縛られた松が「カッパ松」と呼ばれみんなから親しまれるようになりました。

(牛久市立図書館刊『河童松』より抜粋)


小川芋銭『河童百図』より

牛久市立図書館刊
『河童松』の表紙

与一の歌碑

『朝夕の芋銭したしみながめたる
          
沼の向こふの富士の美しき』

 この歌碑は作家で歌人である「中河与一」氏が芋銭の雲魚亭の朝な夕なの生活から、その心境を詠んだもので、芋銭を慕う人々の寄進で雲魚亭から河童の碑へ続く小道の脇に建てられたものです。

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